朗読コンサート企画案

朗読コンサートの企画を作成しました。内容がややマニアック過ぎるため、集客に難があると思われます。そのため、一旦保留とし企画の練り直しを行っております…苦笑。でも、せっかく作成したので、企画内容を以下に公開しようと思います。ただ、一般ウケ狙いは諦めて、コアな客層にこそ訴求すべきとの意見もあり、今後この企画案が復活する可能性もあり得ます。

最近の傾向として、トークの内容が小津監督に関するネタへ偏り過ぎたため、もう一度初心に帰って斎藤高順に関する話題へ戻してみようと考えました。また、朗読のバックにピアノ演奏を入れてみようと思いますが、「アニー・ローリー」の哀愁あるメロディーが相応しいと考えましたが、全曲「アニー・ローリー」というのもどうなんでしょうか…?検討の余地がありそうです…笑。

第一部 小津監督が愛した音楽特集
※全曲歌有り
①オールド・ブラック・ジョー…「一人息子」より
②すみれの花咲く頃…「お茶漬けの味」より
③埴生の宿…「麦秋」「彼岸花」より
④煌めく星座…「東京物語」より
⑤主人は冷たい土の中に…「東京物語」より

第二部 斎藤高順回顧録「小津監督と歩んだ最後の10年」
※朗読コンサート(BGM「アニー・ローリー」…ピアノ)
①「東京物語」より主題曲
②「東京物語」より夜想曲
③「早春」より主題曲
④サ・セ・パリ~ヴァレンシア~「東京暮色」よりサセレシア
⑤「彼岸花」より主題曲
⑥ビア樽ポルカ~「浮草」より主題曲~ポルカ
⑦「秋日和」より主題曲~ポルカ
⑧「秋刀魚の味」より主題曲~ポルカ~終曲
⑨アニー・ローリー(歌有り)

斎藤高順回顧録「小津監督と歩んだ最後の10年」

BGM「アニー・ローリー」
時は昭和27年、東京音楽学校(現在の東京芸大)の研究科を卒業し、早くも三年が過ぎようとしていました。その頃の私は、作曲家として独り立ちしたものの、とても生活を支えるほどの収入を得ることはできず、進駐軍のディナーパーティーでピアノ演奏をしたり、地方の音楽教室でピアノを教えたりして、どうにか食いつないでいるような状態でした。

あの時代、作曲家にとって一番の収入源は映画音楽の仕事をすることでした。しかし、黒澤作品でお馴染みの早坂文雄さんや、後にゴジラ映画で世界的名声を博す伊福部明さん、木下恵介監督の弟忠司さんなどのベテラン作曲家が活躍していた頃で、自分のような新人作曲家にとっては夢のまた夢のような話でした。

そんなある日、NHKのラジオ番組の仕事でご一緒した声楽家の今村桜子さんを介して、思いがけないチャンスが訪れたのです。今村さんはこんなことを言われました。「これから、松竹大船撮影所の音楽部で指揮者をしている吉澤博先生とお会いするけど、もし良かったら斎藤さんもご一緒しませんか。」たまたま、今村さんと吉澤さんはお知り合いだったのです。

実は、吉澤さんとは以前に一度だけお会いしたことがありました。東京音楽学校の卒業を間近に控えていた頃、ピアノと指揮法を指導していただいた金子登先生から「斎藤君は卒業したら、どんな仕事に就きたいと考えてるの?」と聞かれ、「実は、映画音楽の仕事に就きたいと考えています。」と答えました。

すると、金子先生は松竹大船撮影所の城戸四郎所長と懇意にしている方を紹介してくださり、その方の紹介状を持って大船撮影所を訪ねたことがありました。その時は、残念ながら城戸所長にはお会いできませんでしたが、大船撮影所の音楽部へ案内されて、そこで吉澤さんとお会いする機会があったのです。もちろん、すぐに映画音楽の仕事を任されるはずもなく、あれから三年ほどが経過していました。

今村さんと私は、笄町(現在の西麻布)にある吉澤さんのお宅を訪問することにしました。その日は、ご挨拶と他愛のない世間話のような会話を交わしただけでした。しかし、その頃吉澤さんは小津安二郎監督から、新人の作曲家を探して欲しいと頼まれていたのです。

実は、次回作の作曲を担当するはずだった伊藤宜二さんと小津監督との間で、映画音楽に対する意見の相違が生じたため、伊藤さんが辞退してしまったのです。もう一人、前作「お茶漬けの味」で作曲を担当した斎藤一郎さんは、すでに映画音楽の予定を十数本も抱えており、とてもスケジュール的に無理とのことでした。間もなく撮影に入る段階でもあり、困った小津監督は急いで後任の作曲家を探すよう吉澤さんに頼んでいたのです。

吉澤さんは、早速私が作曲したラジオドラマの音楽などを聴き、私の作風が小津映画に合うのではないかと直感したそうです。そして、吉澤さんの推薦により、間もなく小津監督との面談が決まりました。吉澤さんから連絡を頂いたときは、嬉しさよりも驚きの方が大きかったと言えるでしょう。何しろ自分のような新人作曲家が、天下の小津安二郎監督にお会いできるのですから。

吉澤さんに連れられて、初めて松竹大船撮影所を訪ねた日のことは今でも鮮明に憶えています。小津安二郎監督といえば、当時の映画関係者の間では神様のような存在と言われ、またとても厳しい監督であるという噂は私の耳にも届いておりましたので、小津監督にお会いできることは大変光栄なことである反面、恐ろしさで身も縮むような複雑な心境でした。

初めて目にした小津監督は、まるで大きな岩のような威圧感があり、私はすっかり萎縮してしまいました。緊張のあまり黙って下を向いていた私に、小津監督は開口一番「斎藤君は、これまでにどんな映画音楽の仕事をしましたか?」と聞かれました。私は、恐る恐る「いいえ、まだ一度も経験がありません。もし採用していただけたら、先生のお仕事が最初になります。」と答えました。

すると、小津監督は一瞬ビックリした表情を見せましたが、すぐにニコニコ笑いながら「そいつはいいや。」と仰ったのです。そして、驚いたことに小津監督は私の起用を即決してしまい、助監督の山本浩三さんに台本を持ってこさせ私に手渡しました。台本の表紙には、昭和28年度芸術祭参加作品「東京物語」と書かれていました。

♪「東京物語」より主題曲

BGM「アニー・ローリー」
台本を渡されると、いきなり第一回目の打ち合わせが始まりました。台本には、最初の段階から音楽や効果音の入る位置が細かく指定してありました。音楽の入る場所や曲のイメージなどの説明をひと通り聞き終えると、撮影所近くの料亭に連れて行かれお酒をご馳走になりました。スタッフの皆さんも同行し、私を紹介してくれました。

私にとっては「東京物語」が初めての映画音楽の仕事で、何もわからないまま五里霧中で作曲を進めるしかありませんでした。途中で何度か、音楽の打ち合わせということで撮影所へ呼び出されましたが、小津監督は忙しくてなかなか時間が取れず、仕方がないから撮影所の中をウロウロしては、撮影現場を見学したり、スタッフや俳優さんたちに話を聞いたりしていました。

そして、夕方5時頃になると撮影は終了して、みんなで飲みに繰り出すのでした。音楽の打ち合わせとは実は飲み会のことなのかな?とも思いましたが、小津監督は私に撮影現場の雰囲気を肌で感じ取って欲しいことや、スタッフや俳優さんたちと交流を持たせたいという狙いがあったのかも知れません。

作曲家の仕事は、どうしても一人で家に閉じこもりがちになるので、少しでも撮影現場に足を運ぶことにより、小津組の一員としての連帯感を持って欲しかったのだと思います。そんなことを何度か繰り返すうち、「東京物語」の撮影は終了しました。一年一作と言われただけあって、初めて小津監督とお会いした日から一年近くが過ぎようとしていました。クランクアップのあと、オールラッシュという映像だけの試写会が行われ、間もなく映画音楽だけの試演会が行われることになりました。

これは御前演奏会と呼ばれ、松竹大船撮影所では小津監督だけに与えられた特権でした。レコーディングと同様にオーケストラのメンバーが全員集められ、小津監督一人のために映画音楽を最初から最後まで全て演奏するのです。そして、その場でOKかNGかを判断し、NGだった場合にはそこから一週間から10日後に行われるレコーディングまでに曲の書き直しが命じられます。

ついに、「東京物語」の御前演奏会の当日となりました。現場は異様な緊張感に包まれ、水を打ったように静まり返っていました。トップタイトルの音楽が終わっても、小津監督は一言も仰いません。それから次々と吉澤さんの指揮で曲が演奏され、とうとうラストシーンの音楽も終わりました。

恐る恐る小津監督の方に顔を向けると、一言「今度の音楽はなかなかいいね。」と言われたのです。続けて小津監督は、「いいね、音楽みんないいからね、この通りでやってください。」と褒めてくれてNGはひとつもありませんでした。スタッフの皆さんは大喜びでした。これまでに一度もなかったことだそうです。私はもう嬉しくて、レコーディングの日まで家で酒を飲んで寝てました。

そして、レコーディングも無事に終了し、これで自分の初仕事もいよいよ終わりかな、とひと安心していた頃でした。ダビングの時点になってある問題が発生したのです。それは、東山千栄子さんが戦死した次男の嫁、原節子さんのアパートを訪れるシーンの音楽についてでした。

私は、このシーンを映画全体の一つのヤマ場と感じましたから、シーンとピッタリ合う品格のある美しい曲を書き、これに「夜想曲」というタイトルを付けました。ところが小津監督は、「この音楽はシーンと合い過ぎて、映画全体のバランスが崩れる。悲しい曲やきれいな曲では場面と相殺になってしまう。ぼくは、登場人物の感情や役者の表現を助けるための音楽を決して希望しないのです。」と仰ったのです。

小津監督は、曲は気に入っていましたが映像と合わせてみたとき、この音楽が場面に入り込み過ぎていることに気が付いたのです。私はこの曲の出来映えに大変自信があった上、まだ小津監督の意図を正しく理解していなかったので、「夜想曲」を採用するように強く主張しました。

しかし、小津監督は音楽をカットすべきか色々と迷った末、ボリュームを思い切り下げて流すことにしたのです。音楽をもっと小さく、もっと小さくと録音の妹尾芳三郎さんに言って、どんどんボリュームを下げさせたのでした。その結果、このシーンに付けた音楽は映像を観るとほとんど聴こえません。小津監督は、観客の感情に訴え過ぎるような音楽の使い方を嫌っていたのです。

♪「東京物語」より夜想曲

BGM「アニー・ローリー」
問題となった原節子さんと東山千栄子さんの対話シーンは二分以上あり、そのバックには「夜想曲」がずっと流れていますが、当時東京交響楽団のコンサートマスターを務めていた鳩山寛さんによる見事なバイオリン演奏もほとんど聞こえず、私は大変落胆しました。すると、気落ちした私に対して小津監督は次のように仰ったのです。

「いくら、画面に悲しい気持ちの登場人物が現れていても、その時、空は青空で陽が燦々と照り輝いていることもあるでしょう。これと同じで、ぼくの映画のための音楽は、何が起ころうといつもお天気のいい音楽であって欲しいのです。」

小津監督の感情移入を避ける音楽の使い方について、初めて聞いたときは驚きました。でも、少したって考え直してみると、ムシャクシャした気分で街を歩いているときに、楽しい音楽が聴こえてくることは私もよく経験することだし、小津監督の意見は何ら特別ではなく、ノーマルなものなんだと考えるようになりました。

「東京物語」公開のあと、小津監督から田中絹代さんを紹介していただきました。私は、田中さんの監督作品「月は上りぬ」と「乳房よ永遠なれ」の音楽を担当することになりました。また、田中さんが主演を務めた「少年死刑囚」の音楽も手掛けるなど、この時期に田中さんとの親交を深めました。そして、「月は上りぬ」、「乳房よ永遠なれ」、「少年死刑囚」が公開された昭和30年、私は赤坂の霊南坂教会で結婚式を挙げることになりましたが、大胆にも仲人を小津監督と田中絹代さんのお二人にお願いしたのです。さすがに「それは出来ない。」と断られましたが、小津監督は結婚式に出席してくださいました。

私の結婚相手ですが、吉澤博さんから姪(お姉さんの娘)を紹介してもらいました。その人が妻となったので、吉澤さんとは親戚になりました。ちなみに、翌年誕生した長男章一の名付け親は小津監督でした。長男誕生後、蓼科高原の山荘より速達が届き、小津監督に名前を決めていただきました。

♪「早春」より主題曲

BGM「アニー・ローリー」
小津映画第二作目は昭和31年に公開された「早春」でしたが、ここでもある問題が発生しました。それは、主役の池部良さんが病気療養中の会社の同僚増田順二さんを見舞うシーンと、増田さんが突然亡くなってしまい、増田さんのお宅へ池部さんが弔問に訪れるシーンの音楽についてでした。

最初、悲しいシーンなので悲しげな音楽を付けるつもりでしたが、「夜想曲」の一件があったためどのような音楽にするか迷っていました。そこで、小津監督に相談すると次のように言われたのです。

「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑けいな曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる。悲しい場面でも時に明るい曲が流れることで、却って悲劇感を増すことも考えられる。」

そして、「こんな音楽で頼むよ。」と言って、ご自身が所有していたレコードの中から二枚のSP盤を貸してくれました。それは、フランスのシャンソン「サ・セ・パリ」と、スペインのマーチ「ヴァレンシア」でした。

私は楽譜も取り寄せ二曲を分析したところ、リズムやメロディーに共通点があることを発見し、それらを参考にしてよく似ているようで少し違う曲を作りました。小津監督に聴いていただいたところ、大変喜んでくださりご自身で「サセレシア」という曲名を付けました。

「サセレシア」とは特に意味はなく、「サ・セ・パリ」のサセと「ヴァレンシア」のレシアを繋げただけの造語でした。その後、「サセレシア」は昭和32年公開の「東京暮色」ではタイトルバックから主要なシーンに使用され、昭和33年公開の「彼岸花」にもワンシーンだけ使われました。「サセレシア」は、小津監督が仰った「お天気のいい音楽」を象徴する一曲となりました。

♪「サ・セ・パリ」~「ヴァレンシア」
♪「早春」「東京暮色」「彼岸花」よりサセレシア

BGM「アニー・ローリー」
昭和33年に公開された「彼岸花」は、小津映画では初めてのカラー作品でした。小津監督はドイツのアグファカラーを採用しましたが、国産やアメリカ製のフィルムに比べると水彩画のような落ち着きのある色合いが、小津映画の雰囲気によくマッチしていました。ここで、小津監督は赤い薬缶、赤い電話、赤い湯飲みなど、赤い小道具を次々と画面に登場させる遊び心を見せました。

その中には、私たち夫婦の結婚式の引き出物だった赤を基調にした風呂敷まで登場しますが、これは小津監督のユーモア精神の表れだったようです。その赤い風呂敷は、山本富士子さんが佐分利信さんのお宅を訪問するときのワンシーンにほんの少しだけ登場します。山本さんの華やかな雰囲気に、赤い風呂敷の色彩バランスが良かったと言って小津監督はとても喜ばれました。

小津監督はグルメとしてもよく知られていましたが、野菜や果物類は全般的に苦手でした。赤い色がお好きだった小津監督ですが、果物の中でも赤い実の西瓜はどうしても好きになれなかったようです。カニ脚と呼ばれる小津組愛用の三脚まで赤くしてしまった小津監督でしたが、西瓜のことは「青い皮の中に赤い実がある無礼な果物だ。」と言って毛嫌いし、決して口にすることはありませんでした。

小津監督の印象については、怖い人だと言う人もおりましたが、私には優しい人としか思われませんでした。いろいろな雑談を重ねていくうちに、お互いの気心も知れるようになり、時には私も浅い経験から割り出した幼稚な意見などを吐くようになりました。例えば、音楽はもっと映像に影響を与えるような使い方をしても良いのでないかなどと述べても、小津監督は嫌な顔を一切見せずそれらを一つ一つやさしく聞き入れて下さいました。

「彼岸花」はこれまでの作品に比べると、音楽の入る場所が大幅に増えました。これは、アグファカラーを採用したことにより視覚効果が強まったため、音楽も増やして華やかさを増した映像とのバランスを考慮した結果と考えられますが、私の意見が多少影響していたのかも知れません。

♪「彼岸花」より主題曲

BGM「アニー・ローリー」
昭和34年公開の「浮草」では、主役の中村鴈治郎さん演じる旅芸人駒十郎を表すようなテーマ音楽的なものが欲しいね、ということになりました。最初、私はストーリーを意識して民謡風のひなびた曲を用意しました。

私はロケーションに同行させていただき、「浮草」のロケ地だった三重県志摩郡を訪れ、地元に古くから伝わる民謡やお囃子などをモチーフにした音楽を作曲しました。その一曲は「祭囃子」というタイトルで、哀調のある旋律と単純なリズムの曲ですが、小津監督が気に入ってくれて「秋日和」では伊香保温泉のシーンにも使用されました。

ところが、テーマ音楽についてはストーリーにとらわれない、もっと明るくリズミカルな曲を希望しました。旅芸人駒十郎を表す音楽とは、自由奔放で勝手気ままに生きているようだけれど、その胸の内には離れて暮らす家族への想いと、侘しさを感じさせるような哀愁のあるメロディという注文でした。

小津監督はチェコの流行歌「ビア樽ポルカ」という曲が大変お好きだったので、明るさの中にも侘しさを込めたポルカ調の音楽を作りました。アコーディオンとバイオリンが主旋律を受け持ち、要所要所でピッコロやマリンバが前面に現れるといった単純な構成ですが、小津監督はとても喜んでくれました。そして、「浮草」のポルカをきっかけに、昭和35年「秋日和」のポルカ、昭和37年「秋刀魚の味」のポルカと続き、これらは小津調ポルカと呼ばれ小津映画を象徴する音楽となりました。

♪「ビア樽ポルカ」
♪「浮草」より主題曲~ポルカ

BGM「アニー・ローリー」
昭和35年に公開された「秋日和」は、「彼岸花」に続き里見弴先生の原作による大人の喜劇と言える作品でした。弦楽器のユニゾンで始まる主題曲は、原節子さんと司葉子さんが演じる美しい母と娘をイメージして作曲しました。爽やかで清潔感が漂う中に、一抹の侘しさを感じされるメロディが印象的な曲になりました。

ここでも登場人物に合わせたポルカを作曲しました。原さんと司さんをイメージした「秋子母娘のポルカ」や、司さんと佐田啓二さんのために書いた「アヤ子と後藤のポルカ」、また「秋日和のポルカ」は佐分利信さん、中村伸郎さん、北竜二さんの中年三人組を象徴する音楽となっています。

撮影現場では作曲家と女優さんが接する機会はほとんどありませんが、仕事以外の場所で原節子さんと司葉子さんのお二人にお会いしたことがありました。それは、小津監督が癌の治療のため入院された築地の国立がんセンターの病室でした。

原さんと司さんは「秋日和」の撮影を経て、「小早川家の秋」での共演を機会に一層親しくなり、プライベートでもとても仲が良かったのです。小津監督が入院された国立がんセンターは、病室がある四階の窓から新橋演舞場の建物が間近に見える築地や銀座からもほど近い場所にありました。

最初のお見舞いのときには、妻と三人の息子たちを連れて伺いましたが、三度目にお見舞いに伺ったときでした。病室の回りに患者さんや看護婦さんが大勢集まっていて、黒山の人だかりができていました。人垣をかき分けて病室へ入ると、そこには原さんと司さんがお見舞いにいらしていたのです。そこへ私も加わり、三人でベッドにいる小津監督と談笑したことは忘れられない思い出となりました。

♪「秋日和」より主題曲~ポルカ

BGM「アニー・ローリー」
昭和37年公開の「秋刀魚の味」が、小津監督にとって最後の作品となりました。「燕来軒のポルカ」と「かおるのポルカ」はほぼ同じ曲で、これらを称して「秋刀魚の味のポルカ」と呼びました。この曲が気に入った小津監督は、次回作「大根と人参」でも使いたいと言われ、「自分が歌詞を書くから、宝塚の寿美花代に歌わせてレコーディングしよう。」とまで言われたのです。しかし、残念ながらこの話が実現することはありませんでした。

小津監督は誕生日が12月12日なので、毎年その日にはスタッフ一同を神田のなじみの鶏料理屋「ぼたん」に呼んで下さいました。また、毎年大晦日には南千住の鰻屋「尾花」に誘って下さり、大皿からはみ出るような大串の蒲焼をご馳走してくれました。もうお皿からこぼれ落ちそうなくらい大きな蒲焼きで、こんな大きな鰻がいるのかと驚きました。大串をひとりずつ頼んでくれて、小津監督の「さあ食べろ。」の一言で一斉に食べ始めたものでした。

そのあと、みんなで浅草観音へお参りに行って一年の終わりです。正月は、元旦はみんな都合があるだろうということでお休みして、二日に北鎌倉のお宅に集まってワイワイガヤガヤやるのが恒例でした。新年会ではビール、ウィスキー、日本酒、ブランデーなど色々なお酒が朝からテーブルに並んでいて、一日中酒浸りという感じでした。あの頃のことは本当に楽しい思い出です。

最後にお目にかかったのは、四度目に訪れた国立がんセンターの病室でした。私が訪ねると小津監督は「また来たのか。」と言い、ニコッと笑ってベッドから身体を起こすと、神妙な顔付きで次のように言われました。

「斎藤君、ぼくの映画のために作曲した楽譜は、大事にとっておきなさいよ。きっとまた役に立つことがあるからね。」と仰いました。小津監督が、本当に私の音楽を評価してくれていたことを確信し胸がいっぱいになり、そのあとは一体何を話したのか思い出せません。

自分が一人前の作曲家になれたのは、小津監督のおかげだと思っています。昭和27年の夏の終わり頃、大船撮影所で初めてお会いした日のことは、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。まるで夢のような10年でした。小津監督、本当に有難うございました。

♪「秋刀魚の味」より主題曲~ポルカ~終曲

「アニー・ローリー」はスコットランド民謡です。「秋刀魚の味」の楽譜の中に、オルゴール風にアレンジしたものが残っています。映画の中では、後半に一ヶ所だけ使われました。最後に、小津監督がお好きだったこの曲をお届けしたいと思います。

♪「アニー・ローリー」

脚本・ナレーション:斎藤民夫
ピアノ・アレンジ:増井咲
演奏:サイトウ・メモリアルアンサンブル
作曲:斎藤高順

終わり

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