新聞記事など
東京新聞 2015年12月4日
小津映画の名曲味わう
【12日 作曲家・斎藤高順さん遺族ら演奏】
「東京物語」などの小津安二郎監督(1903~63年)の誕生日と命日にあたる12日午後三時から、東京・神田駿河台のカフェ「エスパス・ビブリオ」で、小津映画の音楽の生演奏を味わいながら、曲を手掛けた斎藤高順さん(1924~2004年)の遺族らが名曲誕生の秘話などを披露するイベントが開催される。
小津監督は「秋日和」「秋刀魚の味」などの名作を手掛けた。小津作品での演技が光った原節子さんの訃報もあり、一連の作品は注目を集めている。イベントでは、小津作品の音楽を作曲した斎藤さんの楽曲について、次男民夫さんが解説。長男章一さん(チェロ)、長女内藤景子さん(バイオリン)らが生演奏する。スクリーンには小津ワールドを醸し出す映像も映し出す。また、斎藤さんと親交があった詩人柏木隆雄さんが小津監督のエピソードなどを語る。朝日新聞 2016年1月4日
お天気のいい音楽 感情表現とは離れて
【小津安二郎がいた時代】
「東京物語」(1953年)の音楽を担当した斎藤高順にとって、同作が初めて手がける映画音楽だった。松竹で映画音楽の指揮をとっていた吉沢博の紹介で、初めて小津安二郎に会ったのは、斎藤が27歳の時だった。
それまで斎藤はラジオドラマの音楽などを作っていた。斎藤が緊張しながら、映画音楽は「今度が初めてです」と言うと、小津は「そいつはいいや」と笑ったという。後年、斎藤と歌を作った作詞家柏木隆雄(76)は、斎藤から聞いた小津の思い出の中でこの話が最も印象に残っている。
若かった斎藤を小津が1人の作曲家としてみてくれた。「そのことに感謝していました」
小津作品では、映画音楽が完成すると、録音前に小津の面前で生演奏を披露する「試演会」が行われるのが習わしだった。「東京物語」の試演会で、極度の緊張状態にあった斎藤に、聞き終わった小津は「今度の音楽はなかなかいいね」と声をかけた。小津は音楽にも厳しいと耳にしていた斎藤は感激したという。
こんなことがあった。「東京物語」で原節子と東山千栄子がしみじみ語り合う場面がヤマ場と考えた斎藤は、シーンに合わせた音楽を付けた。だが、映画ではかすかにしか聞こえない。小津は「場面と合いすぎて全体のバランスが崩れる」と言った。落胆した斎藤に小津は「僕は、登場人物の感情表現を助けるための音楽を希望しないのです」と説いた。「悲しい場面の時でも、青空で太陽がさんさんと輝いていることもある。僕の映画の音楽は、何が起ころうといつもお天気のいい音楽であってほしい」
斎藤は小津の心を理解した。その後、斎藤は「秋刀魚の味」(62年)まで、計7本の小津作品を手がけた。
中井貴惠(56)が小津映画の脚本を朗読する「音語り」で音楽を担当するジャズピアニストの松本峰明(60)は「音楽が主張しすぎないという小津監督の意図を一番理解していたのは斎藤作品では」と話す。小津の遺作「秋刀魚の味」もしんみりした場面で陽気な音楽が流れる。「監督が狙っていた音楽が一番うまく表現された作品かもしれません」
斎藤は、自衛隊や警視庁の音楽隊長などを務め、2004年4月に亡くなった。葬儀では、小津映画の音楽が小さく流れ続けた。悲しみに包まれた厳粛な葬儀は、春の穏やかな日差しと、ほのぼのとした「お天気のいい音楽」に満たされていたと、次男の斎藤民夫(56)は語る。「いま思うと、まるで小津映画の一こまのようでした」=敬称略(斎藤博美)信濃毎日新聞 2017年7月29日
「夏の小津会」4年ぶり開幕
【人・作品ゆかりの人々が語る】
茅野市の蓼科高原で脚本を執筆した映画監督小津安二郎と盟友の脚本家野田高梧をしのぶ「蓼科・夏の小津会」が28日、小津の仕事場だった山荘「無芸荘」で3日間の日程で始まった。市内で9月に開く「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」が今年で20回目を迎えることを記念し、4年ぶりに開催。小津と小津作品に改めて光を当てようと、ゆかりのある10人を招いた。
この日は、小津の晩年の作品でプロデューサーを務めた山内静夫さん(92)=神奈川県、小津のおいの長井秀行さん(80)=同=が対談。山内さんは「小津は人間への興味が強く、相手の内面を見て付き合った」。長井さんは「一升瓶の日本酒を毎日飲むほどの酒好きで、野田と2人でいつも楽しそうに飲み交わしていた」と振り返った。
会場に詰め掛けた約40人からは「小津が映画の予算をオーバーしたことはあったか」との質問もあり、山内さんは「フィルム代をけちるなとよく言われた」と明かした。
29日は、映画「東京物語」などの音楽を担当した作曲家斎藤高順の次男民夫さんと高順と親交があった日本童謡協会理事の柏木隆雄さんが対談。美術商の北川景貴さんは小津映画に登場する美術品を手配した叔父について語る。
映画祭実行委員の藤森光吉さん(70)=茅野市=は「家族愛を題材にした小津映画の魅力を今後も機会を捉えて語り継ぎたい」と話していた。世界日報 2019年10月xx日
小津映画の遺産次代へ継承
【第22回「小津安二郎記念蓼科高原映画祭」長野県茅野市】
今年で22回目となる「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」が、先月21日から29日、長野県茅野市で開かれた。日本映画の巨匠・小津安二郎監督は晩年の約10年間、シナリオライターの野田高梧と共に蓼科高原の山荘に滞在してシナリオを作り、多くの名作を世に送り出した。世界的に評価の高い小津作品の遺産を次代に伝え、地域の活性化と文化振興を目指す。
JR茅野駅近くの茅野市民館と新星劇場をメイン会場に、小津作品や最近の話題作の上映、小津映画ゆかりの人々のトークイベント、短編映画コンクールなどバラエティーに富むプログラム。地元ボランティアが運営・接客を務める手作りの味わいを持つ映画祭だ。
新人育成を目指す短編映画コンクールも今回で18回目を数えた。全国から106作品の応募があり、グランプリ(賞金30万円)に飯野歩さんの『位置について、』、準グランプリ(同10万円)に常間地裕さんの『なみぎわ』が選ばれた。
【ゆかりの人々が思い出語る】
今回上映された小津作品は『彼岸花』(昭和33年公開)と『一人息子』(昭和11年公開)。デジタルリマスターされたカラー作品『彼岸花』上映後、同作に出演した山本富士子さんが講演した。
山本さんは、『彼岸花』の台本の読み合わせの時の様子を「一本の糸がピーンと張ったような緊張感に包まれていましたが、それが怖いというのではなくて、小津先生の温かさや優しさが溢れていました」と振り返った。また小津が赤い色が大好きで、同作でも、平山家のどこかに赤いケトルが置かれていることを挙げ、小津が「赤は命の色だから」と言っていたことを紹介した。
最後に同作の撮影終了後、小津監督からプレゼントされたファーストシーンで着た着物を舞台で披露し、その時の感激を昨日のことのように語った。
小津の初のトーキー作品『一人息子』の上映では、小津の甥に当たる長井秀行さんが、「生涯のテーマだった親子の関係をはっきりと描いた最初の作品だと思う。傑作『東京物語』の芽がある」と紹介した。
市民館のコンサートホールでは、女優の中井貴惠さんの朗読とジャズピアニスト松本峰明さんのコラボレーションによる「音語り『秋刀魚の味』」を上演。音楽と朗読を合体させて小津映画『秋刀魚の味』を再現した。
上演に先立って、小津組プロデューサーを務めた同映画祭の最高顧問・山内静夫さんと中井さんの和気あいあいとしたトークも興味深いものだった。中井さんは幼い頃、小津監督に孫のようにかわいがられた思い出を語った。『晩春』を皮切りに朗読の原稿を書いた山内さんは、「最初は恐れがあったが、やり出したら面白くて、さらに『秋日和』などに進んでいった」ことなどを明かした。
同コンサートホールでは、『東京物語』などの映画音楽を作曲した作曲家・指揮者の斎藤高順の子息らで結成する「サイトウ・メモリアルアンサンブル」による、「小津安二郎が愛したお天気のいい音楽コンサート」も開かれた。斎藤高順の回顧録の朗読を交えながら、小津映画の音楽世界に浸った。
小津芸術の理解を深め、その楽しみ方の幅を広げてくれる映画祭だった。(藤橋 進、写真も)東京新聞 2020年2月11日
プッチャリンさん客席泣かせる
【浅草で舞台公演】
浅草芸人のプッチャリンさん(69)=荒川区=がプロデュースし、出演する公演「第四回あちゃくちゃスマイル音楽大行進」が八日、台東区の「雷5656会館」(浅草三)で開かれた。
小津安二郎映画の音楽を作曲した故斎藤高順さんの親族らによる「サイトウ・メモリアルアンサンブル」が生演奏。プッチャリンさんらは、小津映画やチャプリン映画、イタリア映画「道」の場面を短い芝居や朗読で表現し、会場の笑いや涙を誘った。
この日は、立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。観客の一人、大矢康行さん=(66)=埼玉県新座市=は「『ライムライト』の音楽に合わせた演技では泣けた」と話していた。
「かつて役者を目指していたので、やりたかった舞台。不安だったが、お客さまが喜んでくれホッとした」とプッチャリンさん。次回の「あちゃくちゃスマイル」は浅草東洋館(台東区浅草一)で六月六日に開催予定という。(井上幸一)世界日報 2020年12月19日
小津映画支えた斎藤高順の音楽
【サイトウ・メモリアルアンサンブル コンサート】
「東京物語」など小津安二郎の戦後の名作の映画音楽を担当した作曲家斎藤高順の子息が中心となったサイトウ・メモリアルアンサンブルによる「小津安二郎が愛した心を癒す音楽コンサート」が、東京・神田駿河台のカフェ、エスパス・ビブリオで開かれた。コロナ禍中とあって、限定20人での開催だったが、小津映画を彩った音楽の生演奏に、癒やしのひとときを味わった。
斎藤高順は、大正13年(1924)年、小津と同じ東京・深川に生まれ、東京音楽学校(現・東京芸大)に学び、「海行かば」などを作曲した信時潔の指導を受ける。
同期には芥川也寸志などがいる。吹奏楽、管弦楽、室内楽などの作品を多く残すが、行進曲「ブルー・インパルス」の作曲をきっかけに航空自衛隊音楽隊長、警視庁音楽隊長を歴任した。
昭和28年に松竹から「東京物語」の音楽監督に抜擢されて以降、「早春」「彼岸花」から遺作「秋刀魚の味」までの7作品を担当し、日本映画の至宝となった小津作品を音楽面で支えた。
【コロナ時代に希望と癒やし】
サイトウ・メモリアルアンサンブルは斎藤高順の長男、斎藤章一さん(チェロ)、長女の内藤景子さん(バイオリン)などが中心となったアンサンブル。今回は、敗戦後の混乱、貧困の時代を経て、日本が再び立ち上がろうとする時代、小津映画音楽が多くの人に希望と癒やしを与えたとの観点から、「コロナ禍の今だからこそ、現代に甦る小津調サウンドは、疲弊した現代人の心を癒すでしょう」(主催者)との気持ちを込めて開かれた。
当日の演奏曲は「秋日和」の主題曲、ポルカ、「東京物語」の主題曲、夜想曲、「早春」「東京暮色」「彼岸花」のサセレシアなど。小津が映画の中で使用した、好きな曲「アニー・ローリー」「パリの屋根の下」なども演奏された。いわゆる「小津調」を支える穏やかで、しみじみとした、時には軽快な音楽を楽しんでいると、自然と映画の場面が浮かんでくる。
司会を務めたのは斎藤高順の子供のうちただ1人音楽家にはならなかったという次男民夫さん。高順の回顧録から、高順の生い立ち、小津安二郎との出会い、「東京物語」の音楽にまつわる小津監督とのやりとり、そこから知った小津の映画音楽観などに触れた一節を演奏の合間に朗読しながら進められた。中でも興味深いエピソードは、「東京物語」で、東山千栄子が戦死した次男の嫁、原節子のアパートを訪れる場面の吹込みで、小津が「この音楽はシーンと合い過ぎて、映画全体のバランスが崩れるから」とボリュームを小さくして入れた話。
いい出来栄えと思っていた斎藤はがっかりするが、「ぼくは、登場人物の感情や役者の表現を助けるための音楽を決して希望しないのです」「いくら、画面に悲しい気持ちの登場人物が現れていても、その時、空は青空で陽が燦燦と照り輝いていることもあるでしょう。これと同じで、ぼくの映画のための音楽は、何が起ころうともいつもお天気のいい音楽であって欲しいのです」との小津の言葉に、その映画音楽観をしっかり理解した。
二人の芸術家のこういったやりとりの中で、小津映画の芸術的な高さ、奥行きが生まれたことが分かる。「お天気のいい音楽」の発想は、コロナ禍の中で生きるわれわれにも示唆に富むものがある。
同コンサートは、オンラインでも「ツイキャス」でライブ配信(有料)され、14日間何回でも見ることができる。(特別編集委員・藤橋 進)日本経済新聞 2021年11月19日
父の旋律「東京物語」に聞く
【小津安二郎監督の映画音楽手掛けた斎藤高順の資料、整理し公開】
小津安二郎監督の映画「東京物語」は、世界中にファンがいる名作だ。だが、映画音楽が強く印象に残っている人はあまりいないのではないだろうか。手掛けた作曲家は斎藤高順(1924年~2004年)。私の父だ。そのさりげない功績を、後世に伝えたい。
東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)で「海ゆかば」の信時潔に師事し、芥川也寸志さんとは同期生。芥川さんとは生涯の友だったが、音楽の傾向は全く違う。父はドビュッシーのようなロマンチックな音楽を好んだ。静かで穏やかな作風には性格も表れていると思う。人に怒ったり、声を荒らげたりしたのをほとんど見たことがない。
ラジオドラマの音楽を中心に書いていた1953年、松竹大船撮影所で音楽監督を務めた吉澤博さんの紹介で小津監督に会った。渡されたのは「東京物語」の台本。一度も映画音楽を書いたことのない若者にとって恐れ多いことだっただろう。
小津監督は独自の映画音楽観を持っていた。「人物の感情や役者の表現を助けるための音楽を決して希望しない」。父の作風は、その信念にぴったり合っていた。見抜いた吉澤さんの眼力もすごい。「東京物語」から小津監督の遺作「秋刀魚の味」まで計7作品の音楽を書いた。のちに妻(私の母)となる園子は吉澤博さんのめいにあたる。
私の小さい頃、父の話にはよく「オヅさん」が登場したが、親戚の「おじさん」だと思っていた。
「子育ての第一章」ということで長男に章一と名付けたのも小津さんだ。亡くなられた1963年には、父に連れられ長男と一緒に見舞いに行ったそうだが、覚えていない。
5人きょうだいの次男の私は、子供の頃にピアノこそ習っていたが、音楽の道に進まなかった。兄はチェリスト、三男以下もコントラバス、オーボエ、バイオリンの奏者になった。私は大学卒業後、情報機器の会社に勤め、マニュアル作成の仕事などを経験した。
父が亡くなった後、楽譜や新聞・雑誌の切り抜き、仲間内の同人誌の手記などが大量に残されていた。仕事柄、文書の扱いには慣れていたので、母を手伝うつもりで遺品整理を始めた。そこで改めて小津映画をじっくり観て音楽を聴くと、若い頃には分からなかった味わいが感じられた。父の音楽をもっと掘り下げたいと思うようになった。
父は48歳で航空自衛隊の航空中央音楽隊長に転身し、警視庁音楽隊長も務めた。映画が斜陽となる中、5人も子供を育てるために安定した職を選んだのかもしれない。吹奏楽曲も多く、一覧にすると総作品数は700~800ほどに上った。
2015年、一般社団法人を設立。サイト「小津安二郎の映画音楽」で資料や作品一覧を公開している。資料を基に「回想録」もまとめた。今後は楽譜も公開していきたい。兄妹を中心に「サイトウ・メモリアルアンサンブル」も結成し、父の曲を演奏している。音楽家でない私は解説担当だ。父が書いた小津映画の音楽は主に管弦楽曲だが、全作でピアノ譜が残されている。「東京物語」は弦楽五重奏版も見つかった。筆跡からするといずれも晩年に編曲したらしい。「小津映画の音楽を演奏し続けて」という遺言に思えた。ピアノ譜は2018年、出版に至った。
2023年は小津監督の生誕120年、没後60年。翌年は父の生誕100年にあたる。親族だけで小規模な管弦楽団がつくれるので、記念となる大きな演奏会の開催を計画している。(斎藤民夫)朝日新聞 2023年12月17日
機嫌の良い音楽 小津映画の心
【日曜に想う 編集委員吉田純子】
今月12日は映画監督、小津安二郎の120回目の誕生日であり、60回目の命日でもあった。NHKの特集でヴィム・ヴェンダース監督が、代表作の「東京物語」を字幕なしで何度も見て、この作品の本質をつかんだと語っていた。それだけアングルや構図が非凡であったということだろうが、純粋な音として響く言葉、音楽、そして沈黙からも、小津の世界観の核を無意識のうちに受け取っていたのではないかとふと思う。
尾道に住む老夫婦が、東京で暮らす子供たちのもとを訪れる。親子とはいえ、すでにそれぞれの事情を抱え、異なる人生の線路を走る他人同士になっていた。悲哀と諦念の風景の向こう岸を、機嫌の良い朗らかな音楽が抑えた音量で流れ続ける。
作曲したのは斎藤高順。東京音楽学校(現東京芸大)を卒業し、放送現場で活躍し始めたばかりの無名の新人だった。戦時中は陸軍戸山学校に送られ、軍楽隊の作品を多数手がけた。バッハのコラールを範とした信時潔、パリ音楽院に学んだ池内友次郎、「ゴジラ」の音楽を担当した伊福部昭らを師と仰ぐ。代表作のひとつ、吹奏楽曲「ブルー・インパルス」の重厚さと洒脱さを兼ね備えた和声感覚は、三者三様の個性を矛盾なくわがものとした証しだろう。
「東京物語」の公開は1953年。斎藤28歳。それなりの武者震いがあったはずだ。しかし小津の要求は「映像からはみださないこと」。悲しい日にもいつもと変わらず降り注ぐ光のように、お天気の良い音楽を。ユーモアを誇張せず、涙をあおらず。観客が感傷や共感へと流されることを、小津は慎重に避けた。
野心を封じられたことを、斎藤は持ち前の柔軟さで好機とする。次の「早春」では、重病の友人を見舞う場面に、鼻歌を歌いながらスキップするかのような音楽をのせた。シャンソンの「サ・セ・パリ」と「ヴァレンシア」、二つの曲のリズムや旋律のエッセンスを抽出し、軽やかに再構築したこの曲を小津は大いに好み、語呂合わせで「サセレシア」と命名。この楽曲はのちに、家族崩壊のプロセスをほの暗く描いた「東京暮色」の全編を彩ることになる。
妻が逝った日の朝。悲嘆に暮れる子供たちを置いて、笠智衆演じる父親は一人で海を見ている。そして追ってきた義理の娘(原節子) に笑顔でこう語りかける。「きれいな夜明けじゃった。今日も暑うなるぞ」
「東京物語」における斎藤の音楽は、この時の笠のアルカイックスマイルをそのまま音像にしたかのよう。己の悲しみから距離をとることのできる人は、離れた場所で悲しむ人々の心を思うことができる。慟哭しながら祈るのは難しい。己の感情の檻に閉じ込められたままでは、本当に誰かを思うことはできない。
若き斎藤には、すでに自立した音楽を書く態度があった。そして小津の美学に職人として献身した。小津の映像、笠の演技、斎藤の音楽。いずれも「平凡」を装う「非凡」である。それらの奇跡の邂逅を得て、「東京物語」は世界へ開かれた。
1976年生まれのスイスのピアニスト、セドリック・ペシャが6年前、東京でバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を弾いた折の取材で、「人の感情に土足で踏み込まず、距離を置きながら流れる小津映画の音楽に、「ゴルトベルク」に通じる抽象性と瞑想性を感じる」と語っていたことを思い出す。晩年の小津に「譜面を残しておくように。いつか価値が出る」と言われたと、斎藤はのちに述懐する。来年は斎藤の生誕100年。「見る」のみならず「聴く」ことからも、小津の芸術を再評価する年にしたい。「感じる自由」の先にこそ、真の人間の尊厳がある。朝雲 2024年8月22日
小津安二郎監督と元航空音楽隊長の斎藤高順氏との絆
【東京都江東区古石場文化センターで11月7日(木)まで】
昨年、生誕120年、没後60年を迎えた日本映画を代表する巨匠・小津安二郎監督(1903~63年)。生誕地である東京市深川区(現在の東京都江東区深川1丁目にちなんで、地元の江東区古石場文化センター(古石場2-13-2)では、小津監督を紹介する常設展示を開設しており、現在、同じ深川生まれで小津作品の音楽を手掛けた元航空自衛隊航空音楽隊(現・航空中央音楽隊)の隊長・斎藤高順元一等空佐(1924~2004年)とのつながりにスポットを当てた展示が行われています。(日置文恵)
【共に下町・深川生まれ】
江東区古石場文化センターの常設展示「小津安二郎紹介展示コーナー」は、2003(平成15)年に開設され、国内外から多くのファンが訪れています。
同コーナーは年に2回、テーマを決めて定期的に展示替えが行われており、現在の「小津安二郎×斎藤高順」をテーマにした展示は今年11月7日まで開かれています。入場は無料です。
「日本の小津ファンはもちろん、海外からも多くのファンたちが訪れてくださいます」と話すのは、小津安二郎紹介展示コーナーを担当する公益財団法人江東区文化コミュニティ財団の菊地洋子さん。
フランスやカナダなど世界各国から監督をはじめとする映画関係者や個人・団体のファンたちが機会あるごとに訪問してくれるとのことで、ここは、世界の小津ファンにとってもまさに「聖地」と言えます。
ちなみに、今年のアカデミー賞にノミネートされた役所広司さん主演の映画『PERFECT DAYS(パーフェクト・デイズ)』を手掛けたヴィム・ヴェンダース監督(79)も「小津監督に大きな影響を受けた」と話す一人です。
さて、斎藤高順氏といえば、特に航空自衛官にとっては行進曲「ブルーインパルス」がよく知られていますが、展示ではさまざまなスナップ写真と共に、小津監督との絆が紹介されています。
東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科)を卒業後、ラジオドラマの音楽などに携わっていたある日、小津監督に突如抜擢され、1953年の笠智衆さんと原節子さん主演による『東京物語』から、同監督の遺作となった62年の『秋刀魚の味』まで7作品の小津映画音楽を担当しました。その後、行進曲「ブルーインパルス」の作曲をきっかけに航空自衛隊に招聘され、72年から76年まで航空音楽隊長を務めました。
文筆家の米谷紳之介さんによる解説も添えられ、小津監督の「何が起ころうと、いつもお天気のいい音楽であってほしい」というリクエストに、斎藤氏が見事に応えていったエピソードが紹介されています。
小津映画を陰で引き立てる淡々と軽やかでリズミカルな音楽の裏には、年齢は離れていても秀でた才能を持った者同士の大きな信頼関係があったことをうかがい知ることができます。
常設展示ではこのほか、小津監督の出生時のへその緒、うぶ毛、子供の頃の作文や絵画、日本画家の伊藤深水(1898~1972年)が描いた母あさゑの肖像、江東の地が描かれた作品の解説パネル、小津と深川のゆかりを紹介する映像「小津安二郎と深川」の上映(8分)―など、見所が満載です。
菊地さんは「下町情緒あふれる深川エリアはとても楽しいまちです。ぜひ遊びに来ていただけたらうれしいです」と話しています。
同センターではほぼ毎月、小津映画をはじめとするさまざまな監督による映画の上映会を行っているほか、今年も12月には恒例の「江東シネマフェスティバル」を開催予定です。
問い合わせ=江東区古石場文化センター(電話03-5620-0224)