テレビ・ドラマ=映画テーマ音楽集“テレビをディスクで”

LPレコード~デジタル変換シリーズ①
「テレビ・ドラマ=映画テーマ音楽集“テレビをディスクで」
ブルーリボン・ポップス/テレビのオリジナル・テープより

〈Side-1〉
NHK・TVドラマ「赤穂浪士」テーマ
赤穂浪士(1分40秒)…芥川也寸志作曲
NET・TVドラマ「判決」テーマ
判決(1分30秒)…渡辺浦人作曲
TBS・TVドラマ「幕末」テーマ
幕末(1分06秒)…舟越隆司作曲
NHK・TVドラマ「紀の川」テーマ
紀の川(1分34秒)…大栗裕作曲
NHK・TVドラマ「あかつき」テーマ
あかつき(3分22秒)…斎藤一郎作曲/小川寛興編曲
NET・TVドラマ「徳川家康」テーマ
徳川家康(1分30秒)…渡辺岳夫作曲
NHK・TVドラマ「うず潮」テーマ
うず潮(2分13秒)…田中正史作曲
↓Side-1の音源↓

〈Side-2〉
NHK・TVドラマ「事件記者」テーマ
事件記者(1分29秒)…小倉朗作曲
TBS・TV映画「海の音」テーマ
海の音(3分15秒)…斎藤高順作曲
NET・TV映画「特別機動捜査隊」テーマ
特別機動捜査隊(3分10秒)…牧野由多可作曲
NHK・TVドラマ「馬六先生人生日記」テーマ
馬六先生人生日記(1分57秒)…桜田誠一作曲
NTV・TVドラマ「夫婦百景」テーマ
夫婦百景(1分26秒)…服部正作曲
NET・TV映画「鉄道公安36号」テーマ
鉄道公安36号(2分43秒)…水藻秀男作曲
フジTV映画「噴煙」テーマ
噴煙(2分30秒)…斎藤高順作曲
↓Side-2の音源↓

[解説]
だいぶ前の話である。黒沢明が演出した映画で、「原子爆弾の問題」を主題にした作品があった。――この際、その映画のタイトルはあまり重要なことではない。
この映画で印象的だったのは、物語が完結した時、なお暗い映画館の中に音楽が流れていたということである。
それは幕間の音楽ではなかった。この映画の音楽を担当し、全曲を書き終えながら、封切り前に死んだ早坂文雄の音楽の一部が画面より、より長く残っていた。その残った分を流したのである。それは黒沢明の早坂に対する追悼(ついとう)の友情であり、早坂のすぐれた才能に対する惜別の付録であった。
しかし、そのこと自体も大きな意味はもたない。それは黒沢と早坂の友情ということだけであって、感傷としてかたづけても悪くないことだった。
ただ、たまたま、こうしたことが行われたことによって、映画音楽というものがきわだった形で聴衆に訴えてきたことが印象深かった。
もちろん、映画音楽というものは、映画そのものの作品的水準ともかかわりあい、興行成績にも結びつくファクターであるということはだれしも異論のないところである。
「禁じられた遊び」、「第三の男」と例をあげればキリはない。
しかし日本の映画の場合どうだったろうか?映画音楽が注目されるケースは邦画にはいちじるしく少なかった。早坂の音楽を聞いた時あらためて、映画音楽というものを考えさせられた――というのも、そう間の抜けた話でもあるまい。
ちょうど、その当時だったと思う。黛敏郎が某レコード会社と専属契約を結んだ時に、興味深い発表をした。
「いわゆる自分の書いた作品――つまり演奏会で演奏されるような作品をレコード化することが、自分の契約の直接の目的ではあるが、同時に、映画音楽といった付属音楽も、いわゆるサウンド・トラック盤としてとっておきたいという希望もあるわけだ」というのである。
その希望は別に不思議なことではない。しかし、いわゆる歌詞のついた主題歌ならいざしらず、映画音楽そのものをレコード化したいという、その態度の中に、映画音楽に対する作曲家の新しい態度がうかがえて興味深かったわけだ。
フィルム産業が一般化したのは1920年代の後半だったと思うけれど、その初期の映画は、そのもの自体決して高い水準のものでなかったし、当然、その付属音楽も、レコード化するに価するものはなかったといえるだろう。
今から十数年前の映画の多くは、悲しい時にはバイオリン、スローで、マイナーで、というのが決まり相場であった。それは説明的なフンイ気の作り方といってもいいだろうし、極端にいえば、音響効果であった――といってもいいのではないだろうか。
後年、ウエスト・サイド・ストーリーの作曲家であるレナード・バーンスタインが映画に音楽を書いたことを知った。
マーロン・ブランドが主演し、エリア・カザンが監督した「波止場」である。
しかも、彼は演奏会用の組曲として、レコード化していることを知った。
彼の才能に対する尊敬とは別に、彼自身の映画音楽に対する考え方ということを思い知らされて、このことも印象深かった。
いずれにせよ、映画音楽が、説明的な、類型的な、あるいは音響効果的なものから脱却して、さらに高い水準の音楽となってきているのは当然であろうし、それが現況といえるものに違いない。
さて、映画というすぐれて視覚的なものにおける音楽というものが、それ自体、新しく独立した立場をもちうるかどうかということは問題にしていいことだろう。
英語でいう(Incidental Music)というのは明確に付属する音楽であって、その音楽には主体的なものは期待されていないような感じがする。
ひとつの映像のメディアを通じて、プロットを進展させる。そのドラマが本質であってそれに映像を通過させるという技術が、映画芸術の本体であって、音楽は単に、その効果を高めるという補助的な位置しか与えられない――といった論理も成り立たないわけでもないわけだ。
しかし、本当にそうだろうか?
そう簡単にはいえない。類型から脱却するために作曲家が工夫し、苦労するというケースがあたりまえになってきているからだ。
物語の発展の中に浮かび上がり、沈みこんでゆく、人間ドラマの心象を描くための工夫は、それ自体が独立しても鑑賞されうるだけの制度と内容とをもつようになってきていると思えるのだ。
映画を構成するいくつかのファクターがそれぞれ独立し、しかも全体のひとつとして、自らを主張しながらも、相乗的な効果を上げて行く――それが現代の映画音楽の先端的な状況であるように思えるのだ。
それはオペラの序曲が、その作品の中にある数々のアリアやデュエットを内包し、それによって構成され――つまり劇の進行の中で歌われる、その劇的な場面とははなれていながらもじゅうぶん楽しく聞けるといったような意味での、精度と内容をもっているように思えるのである。
さて、映画音楽の話ばかりになってしまったのだが、映画もテレビもともにすぐれて映像的なメディアであるということをいえば、この映画音楽に関する論及が、ただちにテレビにもあてはまるということが理解していただけると思うのである。
もちろん、テレビは映画より画面は小さい。しかし、それは問題の本質とあまりにかかわりあいのあることとは思えない、それより一回きりで終わってしまう映画音楽にくらべて、テレビの場合、毎日、あるいは週一度繰り返し、放送されるわけだ。この差の方が問題としては大きいだろう。つまり、”聞き慣れる”、ということと、”新しみを感じる”という点である。
さてこのLPに収められた14曲は、すでに放送が終わったものがあったとしても、”聞きあかれた”曲でなくて、”耳に親しまれた”曲ばかりといえるだろう。
とりわけ芥川也寸志の「赤穂浪士」の主題曲は、単純な主題の発展、変奏といった意味で、非常に多くの人に支持を受けた作品であった。
1964年度のレコード大賞の作曲部門にもノミネートされたぐらいであるこうした作品が演奏会用の組曲として手を加えられたらという感じがする。
小倉朗の「事件記者」の音楽も緊張を感じさせる作品である。そしてこの曲を聞くたびに例のウエスト・サイド・ストーリーの音楽を思い出すのである。
「大阪俗謡による幻想曲」という作品を書き、ベルリン・フィルが演奏して好評だったという大栗裕が、関西を舞台にした「紀の川」の作曲をしているのだが、彼の場合なども当然バーンスタインの考えるようなことを行動すべきであろうし、この曲の中にも、そうしたことへの可能性をじゅうぶんに示している。
同じ大阪の作曲家田中正史のヴォーカリズムを使った「うず潮」、きわめて牧歌的な曲を書いた桜田誠一の「馬六先生人生日記」、暗いマーチでその時代のフンイ気をつたえる舟越隆司の「幕末」、斎藤高順の口笛のはいった「噴煙」、同じく波の音を入れた「海の音」、それぞれに工夫がほどこされた音楽である。
それぞれ、家族のだれかが愛唱しているメロディーであり、リズムであろう。
きわめて突然だけれど、こうした主題曲を聞きながら思い出すのは、バーンスタインがいっていることばである。
“その国の交響曲といったものは突然に生まれるものではない。その国の劇場音楽が、その国の音楽的語法を確立した時に生まれるのだ”という理論である。
彼は自らのことば通り、一指揮者として甘んじることなく、いくつかのミュージカルを書いている。そしてミュージカルというのはアメリカの語法によって作曲されたものであり、その上に交響曲が生まれるのを彼は期待するのである。
ミュージカル・ナンバーとよばれるものとテレビの音楽、とくにテーマ曲とが、同じような質のものであるかどうかは疑問がないわけではない。しかし、願わくは、純音楽として、それ自体の生命をもちうる交響曲というものに構成され得るほどの実質を内包してもらいたいと思うのである。
それは「白鳥の湖」の曲がバレエ曲として親しまれていると同時に、チャイコフスキーの作品として音だけでもじゅうぶんに鑑賞されているようにである。
もちろん、「白鳥の湖」といわず、ミュージカルといわず、それは劇進行の中でのバライエティーある曲の豊じょうさの中に魅力が生まれてくるのであって、主題曲という、短い楽句の中に、同じようなものを期待してはならないだろう。
しかし、交響曲というのは、いくつかの主題の発展というところにひとつの特徴もあるわけでする。
テレビの主題曲といって、それだけで消えて行くことはいかにも惜しいと思われるのである。
このアルバムは単に主題曲を収めたものに過ぎないけれど、さらに作曲家が、この主題を発展させて、音楽それ自体の自律性によって構成されるキッカケとなれば、このLPのはたす役割は大きなものであるといえるだろう。
《解説/サンケイ新聞・岡野弁》

発売元・キングレコード株式会社|KING RECORD CO., LTD. Japan (C) 1965

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