「美に生きる」 山田尚時(洋画家)

美に生きる 東京12チャンネル(テレビ東京)
1990年(平成2年)11月17日 8:30~8:55放送

「光を求めて水辺の風景を描く」
 山田尚時(洋画家)
 世良譲(ジャズピアニスト)
 斎藤高順(作曲家)
 ほか

山田尚時氏は、父高順が亡くなって間もなく、ご自身が理事長を務めるNPO法人の会報誌に、次のような追悼のメッセージを掲載しました。山田氏もすでに故人となりましたが、私自身幼い頃からずいぶん親しくしていただいたことを、昨日のことのように懐かしく思い出します。

斎藤高順さんを偲んで
穏やかで温かい、純粋無垢な人柄の方だった。
思えば、四十年もお付き合いしたことになる。私は八才年下となるし、職業も違い性格も違うのに不思議に馬が合うというのだろう。一緒にいるとお互いに気持ちが良かった。
当時私は知床をテーマに毎年個展をしていたが、毎回ご夫妻で見に来て下さった。昭和三十六年頃流行った歌には斎藤先生の作曲のものもある。専門の分野ではなく周囲には内緒にしていらしたようで、天国で困った顔をしているかもしれないが、その時「ちょっと必要でないお金が入りましたので、必要なものを買おうと思って」と言って私の知床の絵を買って下さった。今も斎藤家の玄関に掛かっていて、伺う度にあの時の茶目っ気の顔を思い出してしまう。
優しい園子夫人と人柄どおりの和やかな家庭を持たれ、五人の子供達に恵まれ四人は芸大を出て音楽家になっている。又、弟の鶴吉氏も芸大出の指揮者として活躍しておられ、正に音楽一家である。
唯一の欠点は真面目すぎたことのようで、私を遊び人と見込んだ園子夫人から「すこし遊びを教えてあげて下さい」と頼まれたりした。実際それまでほとんどお酒を飲まれなかったが、私と銀座を飲み歩きしてとうとう飲めるようになってしまった。結構お酒に強い体質だった。一業種一名しか会員になれないというビールの会に誘ったりすっかり酒好きにしてしまったが、楽しい良い酒だった。
又その頃、私はパリ日本人学校の設立に協力したのだが、校歌を斎藤先生にお願いし、無理を言って大変安く作っていただいた。
1997年“世界のお巡りさんコンサート イン ヨーロッパ”に斎藤ご夫妻が招待された時は、警視庁音楽隊の方々と、日本人学校でもコンサートを催し喜ばれた。
1975年航空・海上・陸上自衛隊の音楽隊長が三人で視察にパリへ来られたことがあった。その折私は、例により夜のパリ案内に出向き、夕食後ムーランルージュに行きたいと言われた。必ず食事付きだったが、知り合いの支配人に「日本の大切な大指揮者だから」と頼み、飲み物だけで入れてもらった。そのあと黒人ジャズの店・南米音楽の店など、フィーリングや音色の違う店に案内し大変喜んでもらったのも楽しい思い出だ。
斎藤先生は、中学の先生に音楽の才能を見出され、東京音楽学校の金子登先生との対話から、映画音楽をしたいという意識が生まれて松竹の城戸四郎社長に会うことになる。又ソプラノ歌手の今村桜子の紹介で映画音楽指揮者の吉沢博に会うことにより小津安二郎と巡り合うという運命に導かれた。人の一生はさまざまな人々との巡り合いによって道が出来ていくのだとつくづく思わされる。
常に寄り添い共に生きる妻の存在はもちろんながら、斎藤先生にとって母の存在は大いなるものがあった。子供の人生の方向を間違えることなく、夫の反対を押し切って子供の才能を開花させ得たのは、ひとえに母の力によるものだった。
人の一生であるから苦しいこともあったであろうし、さまざまな試練を乗り越えても来られたことだろう。しかし俯瞰すれば斎藤先生は、最愛の母に育てられ、幸せな家庭を築き、素晴らしい仕事を残された。
良い人生だったときっと天国でニコニコしていられることだろう。

出典:ジャピックセピア10月号(2004年10月1日発行)

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