スクリプト公開|小津映画の音楽を生演奏で愛でながら作曲家・斎藤高順の人と作品を語る会

小津映画の音楽を生演奏で愛でながら作曲家・斎藤高順の人と作品を語る会
2015年12月12日(土) 15:00~17:00

オープニング映像
第一部 少年時代から作曲家デビューまで
 少年時代(解説)…『早春』
 戦時中のこと(解説)…『彼岸花』
 終戦後のこと(解説)…『浮草』
 作曲家デビューの頃(解説)…『秋日和』
休憩(10分間)
第二部 小津監督との出会いから別れ
 小津監督との出会い(解説)…『東京物語』(演奏)
 『東京物語』の隠れた名曲誕生秘話(解説)…『夜想曲』(演奏)
 小津監督が好んだ「お天気のいい音楽」とは(解説)…『サセレシア』(演奏)
 『秋刀魚の味』のポルカには歌詞が付くはずだった?(解説)…『秋刀魚の味』メインタイトル~ポルカ~エンディング(演奏)
 小津監督との別れ(解説)…『オルゴール』(演奏)
詩人・柏木隆雄「斎藤高順さんとの思い出」
エンディング映像
 解説:斎藤民夫、柏木隆雄 演奏:斎藤章一、内藤景子、増井裕子 アレンジ:増井咲

原節子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます
「小津安二郎 DVD-BOX 特典映像」より、原節子と笠智衆が登場する珍しいJRのCM映像
小津安二郎と佐野周二の中国戦線からのニュース映像
斎藤高順のインタビュー映像
上記を続けてご覧下さい。

斎藤高順 さいとうたかのぶ プロフィール
一九二四年(大正十三年)、東京深川に生まれる。東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)卒業後、ラジオドラマの作曲などを行う。二七歳の時、小津安二郎監督に見い出され、『東京物語』から遺作となった『秋刀魚の味』まで七作品の音楽を担当した。ラジオ、映画、テレビなどの音楽を多数手がけた後、四八歳の時に航空自衛隊音楽隊長に転身、五二歳の時には警視庁音楽隊長に着任。その間、「ブルー・インパルス」「輝く銀嶺」「オーバー・ザ・ギャラクシー」などの吹奏楽曲をはじめ、歌曲、ピアノ曲などを数多く作曲した。小津安二郎監督作品の世界的な評価に伴い、斎藤高順の功績にも関心が高まっている。二〇〇四年(平成一六年)、虚血性心不全のため死去。享年七九歳。

【注意】
なお、次の映像は、髪がフサフサしていて、顔もむくんでおり、まるで別人のようですが、斎藤高順本人に間違いございません。(笑)なぜ、斎藤は変身したのか?その理由は、最後のパートで生前、斎藤と親交のあった詩人・柏木隆雄さんよりご説明があります。お楽しみに!
斎藤高順インタビュー映像

【フリートーク①…作曲家のちょっと変わった日常】
ほぼ家にいて、寝てるか、呑んでるか、ピアノを弾いてる昼夜逆転、一晩中人が出たり入ったり大酒呑みでヘビースモーカー、書斎は煙幕で前も見えずピアノの下が仮眠室、人が床でゴロゴロ寝てる

第一部 少年時代から作曲家デビューまで

少年時代

写真:兄(貫一)と昭和元年頃、母(たみ)と昭和13年頃
BGM:『秋日和』より「秋子と間宮1」作曲:斎藤高順

私は1924年(大正13年)東京は深川の生まれで、家業は酒屋でした。男ばかり3人兄弟の真ん中です。子供の頃から運動音痴で、野球のルールさえ知らなかった私に、音楽の才能があると見込んでくれたのは、日大一中時代の恩師、音楽の斎藤太計雄先生でした。

見よう見まねで始めたピアノでしたが、斎藤先生は私が専門家の先生について、本格的に音楽の勉強をすることを父に勧めてくれたのです。しかし、明治生まれの頑固者の父は、「音楽など女子供のやるものだ!」と言って猛反対しました。私はすっかり落胆し、食欲もなくすほど元気を失ってしまいました。そんな様子を見て母はひどく心を痛め、とうとう頑固者の父を説得してくれたのです。しぶしぶ了承した父でしたが、私が並々ならぬ熱意で音楽に取り組む姿を見て、やがて理解を示してくれるようになりました。

そして、戦時中の物のない頃に、グランドピアノのスタインベッヒ(ドイツ製スタインウェイ)を買ってくれたのです。しかも、レッスン料の高い有名な作曲家の先生にも通わせてくれて、音楽の勉強に励むことができました。また、ピアノは戦災にあう前、長野の疎開先で大切に保管してくれるなど、父からは大変な恩を受けました。それなのに、どうしても価値観が合わず、亡くなるまで親しく酒を酌み交わすこともありませんでした。今思うとそのことが大変悔やまれますが、今さらどうにもならずとても残念に思っています。
BGM:『秋日和』より「送別ハイキング」作曲:斎藤高順

「早春」ピアノ演奏:斎藤高順
1956年(昭和31年)松竹株式会社

早春 主題曲(昭和31年度松竹作品より)
音源:『秋刀魚の味 -小津安二郎名作映画音楽集-』(日本クラウン株式会社)
さわやかな早春を想わせるようなマンドリンの独奏に始まるこの曲は、タイトルとエンドだけに用いられ劇中には現われておりません。マンドリンのあと弦、フルート、弦とつづいた後、再びマンドリンによって曲は結ばれます。マンドリン独奏は、当代の一人者竹内郁子さんです。
(解説:斎藤高順)

【フリートーク②…正月は自宅が大宴会場に!】
自宅が宴会場と化し、人でごった返す
家が合コン会場になり、後に結婚するカップルも出現
おつまみは超手抜き、ポテチとピーナッツが定番
宴会で出した冷凍ピラフが何故か大好評に

戦時中のこと

写真:音楽学校の頃(芥川也寸志、團伊玖磨、斎藤高順、奥村一、依田光正)
BGM:『秋日和』より「秋子と間宮2」作曲:斎藤高順

上野の東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)の作曲科に入学したのは、戦争中の1943年(昭和18年)です。同期に、芥川也寸志、奥村一、依田光正、一級上には團伊玖磨がいました。音楽学校の2年に在学中の1944年(昭和19年)には、当時大東亜戦争といわれていた第2次世界大戦もますます激しくなりました。学生の特権であった徴兵猶予も廃止され、私の先輩たちも次々に戦地へ送られていきました。

将来を嘱望された作曲科の優秀な学生からも、たくさんの戦死者が出ました。それを憂慮した当時の校長であった乗杉嘉寿氏と陸軍戸山学校軍楽隊長の山口常光氏とが話し合いの機会を設け、音楽学校の生徒で徴兵適齢者は軍楽隊に入れて、音楽で国のために尽くしてもらおうということに決まりました。

私と芥川、奥村、團は作曲専攻でしたが、軍楽隊では私と芥川はサキソフォーン、奥村はオーボエとバズーン、團は打楽器を与えられました。乗杉校長と山口隊長のご英断により、私たちは命拾いしたことになります。もし、このことがなければ、私たちは全員戦死していたかも知れません。
BGM:『秋日和』より「平山の再婚話」作曲:斎藤高順

「彼岸花」ピアノ演奏:斎藤高順
1958年(昭和33年)松竹株式会社

彼岸花 主題曲(昭和33年度松竹作品より)
音源:『秋刀魚の味 -小津安二郎名作映画音楽集-』(日本クラウン株式会社)
短い前奏のあと、弦楽器を主体にゆるやかな旋律が現われます。これは主人公夫妻(佐分利信、田中絹代)が、他人の娘には結婚をすすめながら、自分の娘(有馬稲子)が相手(佐田啓二)を見つけると、冷静さを失ってしまうという、矛盾した親心を現わす場面に出て来るテーマです。いわゆる心理描写の音楽ではなく、小津監督がよく注文された”お天気の良いような”音楽です。このあと弦楽四重奏で奏される部分は、京都の旅館の娘(山本富士子)に主人公が結婚をすすめる場面で用いた音楽で、このシーンは特に印象の深かったものです。又はじめのテーマが全楽器で奏され、曲は終ります。里見弴原作になるこの映画は、文部大臣賞及び都民映画コンクール金賞を受賞しております。
(解説:斎藤高順)

【小津トリビア①】
宴会で小津監督が、アコーディオン奏者村上茂子さんによくリクエストした曲とは何でしょう?
宴会で小津監督が一杯気分で歌った曲は?
カラオケなど無い時代ですから、松竹音楽部のアコーディオン奏者村上茂子さんを伴って飲みに行くことがありました。そんな時、小津監督が村上さんによくリクエストした曲があったそうです。小津監督は、自分が好きな音楽を映画の中でも使用する傾向がありました。フォスターの作品や、『宗方姉妹』でも登場した「ビア樽ポルカ」、宝塚歌劇団の曲「すみれの花咲く頃」や「モン巴里」などを、監督は村上さんによくリクエストしたそうです。

宴会で小津監督がよくリクエストした曲
ビア樽ポルカ
モン巴里~宝塚少女歌劇団花組~
また、宴会で小津監督は酔いが回ってくると、よく口ずさんだ歌がありました。 『お茶漬けの味』で笠智衆も歌っていた「戦友の遺骨を抱いて」と、同じく『お茶漬けの味』に出演した鶴田浩二の歌でも有名な「湯島の白梅」がお得意の一曲でした。

小津監督が一杯気分で歌った曲
戦友の遺骨を抱いて 唄:東海林太郎
湯島の白梅 唄:鶴田浩二

終戦後のこと

写真:焼け野原となった東京の街
BGM:『秋日和』より「秋子と間宮3」作曲:斎藤高順

時は1945年(昭和20年)5月でした。3月10日の東京大空襲で牛込の戸山学校は全焼し、軍楽隊は焼け残った浅草橋の日本橋高等女学校の1階に仮住まいしていました。その頃、作曲をやっていた4人(私、芥川、奥村、團)には、特別の任務として部隊歌や吹奏楽曲の作曲が命じられ、一人ずつピアノ付きの個室が与えられました。

ところが、それからわずか3ヶ月後の8月15日に戦争は終わり、同時に軍楽隊も解散となったのです。敗戦のショックで茫然自失となった私たちは、隊に残っていた樽酒を全部自由に飲ませてもらいました。粗末なアルミニュームの食器で冷酒をガブガブと飲み、結局何杯飲んだのか覚えていません。

深川にあった実家は全焼してしまいましたが、幸い両親は長野に疎開していて無事でした。その後、江古田のアパートに住んでいた兄の友人が、転居するので部屋が空くからそこに住まないか、という話を聞き早速引っ越しました。江古田のアパートは四畳半一間で、小さい流しがある他はトイレもない所でした。

親に無理な仕送りは頼めないので、配給のビールを知人に高く買ってもらったこともありました。1日の主食があまり大きくないコッペパン3個の時もあり、いつも腹が空いていたので、朝に3個食べたこともありましたが、その後の食事はどうしたのか記憶にありません。

ある日、友人が訪ねてきたので歓迎のつもりで、板切れで作った箱の内側にブリキを張ったパン焼き器に、あり合わせの小麦粉をこねて入れました。部屋の隅にあるコンセントにソケットを差し込んだ途端、バッと火花が飛んだと思ったらアパート中真っ暗闇になり、人々のざわめきが激しくなりました。私と友人は顔を見合わせて沈黙を続け、騒ぎが収まるまで部屋から出られなかったことは今も忘れられません。
BGM:『秋刀魚の味』より「路子のたびだち」作曲:斎藤高順

「浮草」ピアノ演奏:斎藤高順
1959年(昭和34年)大映株式会社

浮草 主題歌・ポルカ(昭和34年度大映作品より)
音源:『秋刀魚の味 -小津安二郎名作映画音楽集-』(日本クラウン株式会社)
この「主題曲」ははじめ民謡風のひなびた曲を用いる予定になっていたところ、小津監督の希望で、劇の内容にとらわれない品の良い曲を、ということで作られたものです。従って映画では、タイトルとエンドにだけ使われておりますが、弦の美しい調べは、映画の格調の高さを暗示させます。続いての曲は「ポルカ」に変わります。実はこれがこの映画のテーマ音楽というべきもので、冒頭旅役者の群をのせた連絡船が入るシーンに使用されたほか、中村鴈治郎扮する主人公の現れるところでは必ずといって良いほどこの「ポルカ」が入っております。曲はアコーディオンとバイオリンが主に旋律を奏し、ところどころピッコロやマリンバが表面に現われる程度の単純なものですが、小津監督は大変喜ばれて、これ以後の映画には必ずと言って良いほど色々な「ポルカ」が作られております。
(解説:斎藤高順)

【小津トリビア②】
小津調サウンドとは何でしょうか?
小津調サウンドの代名詞はポルカです。
では、ポルカとはどういう音楽を指すのでしょう?
ポルカとは、1830年頃にチェコで生まれた民俗舞曲で、2拍子の速いリズムが特徴の音楽です。実は、日本でも流行ったポルカがありました。大阪万博で日本中が沸きかえっていた1970年に、40万枚を超える大ヒット、シングルチャート10位を記録したナンバーです。
その曲とは一体何でしょうか?
答えは、「老人と子供のポルカ」でした。
唄:左卜全とひまわりキティーズ
当時76歳だった左卜全は、若い頃浅草オペラでオペラ歌手だったそうです。ちなみに「ひまわりキティーズ」には、後に「ひだまりの詩」の大ヒットで有名になったル・クプルの藤田恵美さんも在籍していたとのことです。

また、斎藤は小津調サウンドについて、次のように語っていました。「サセレシアやポルカのような音楽は、他の監督さんの時にはやりませんでした。あれは当時にしても、流行りのリズムというものではなかったですから。」斎藤は、1959年(昭和34年)『浮草』、1960年(昭和35年)『秋日和』の間頃、日活で次の2作品の音楽を担当しました。『銀座旋風児(ギンザマイトガイ)目撃者は彼奴(きゃつ)だ』…小林旭主演、浅丘ルリ子他
『あじさいの歌』…石原裕次郎主演、芦川いづみ他

「あじさいの歌」唄:石原裕次郎
完全に小津調です!
小津調サウンドは、実は斎藤調サウンドだったのです。斎藤は「何を書いても小津調とからかわれた。」と当時を述懐して苦笑していました。

作曲家デビューの頃

写真:作曲家を志した若き日(昭和24年頃)
BGM:『秋日和』より「榛名湖の食堂で」作曲:斎藤高順

1947年(昭和22年)の3月に東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)を卒業しましたが、続けて研究科に残してもらい、そして1949年(昭和24年)3月には研究科を修了しました。当時は、まだテレビもない頃で、ラジオも民放はなくNHKしかありませんでした。その頃、作曲家の仕事で最大の収入源は映画音楽を担当することでしたが、早坂文雄さんや伊福部昭さんなどが活躍中で、私には夢のまた夢のようなことでした。

その頃から、民間放送局が次々と誕生し、劇伴の仕事がだんだんと増えてきました。徹夜で作曲すると、泊まり込みの写譜屋が次々にパート譜を作り、夜明けとともにそれを持って数ヶ所の放送局へ出向き、かけ持ちで指揮棒を振る日々が続いたりしました。研究科を卒業したばかりの頃、ピアノと指揮法を指導していただいた金子登先生から、松竹大船撮影所のお偉方と親しい方を紹介していただきました。その方の紹介状を持って大船撮影所へ行ったところ、松竹の音楽部に連れて行かれ、作曲や指揮の先生に会わせていただきました。

しかし、そう簡単には映画の仕事は廻ってこず、その後はラジオの仕事の方が大変忙しくなってしまったのです。そして、松竹へお伺いしたことさえ忘れかけていた頃、突然大船撮影所から私に連絡が入りました。この連絡が、その後の私の運命を大きく変えることになったのです。
BGM:『秋日和』より「アヤ子の結婚」作曲:斎藤高順

「秋日和」ピアノ演奏:斎藤高順
1960年(昭和35年)松竹株式会社

秋日和 主題曲・ポルカ(昭和35年度松竹作品より)
音源:『秋刀魚の味 -小津安二郎名作映画音楽集-』(日本クラウン株式会社)
里見弴原作による映画『秋日和』の主題曲は、美しい母娘(原節子、司葉子)のテーマというもので、弦の斉奏による音階のあと、爽やかな中にも一抹のわびしさを秘めて奏されます。特に、娘の結婚を前にして母娘が榛名湖に旅行するシーンは、美しく思い出されます。「ポルカ」は、母の再婚話を進めるために娘の友人(岡田茉莉子)や亡父の親友(佐分利信)たちが色々骨を折る場面にしばしば現われる音楽です。軽快な曲にも拘らずなかなか画面を引きしめて評判の高かったものです。他のポルカと同様アコーディオン、バイオリン、木管等が旋律を受け持っております。
(解説:斎藤高順)

休憩

小津映画の音楽を生演奏で愛でながら作曲家・斎藤高順の人と作品を語る会|第1部(PDF)

第二部 小津監督との出会いから別れ

小津監督との出会い

写真:最前列中央(斎藤夫妻、信時潔、小津安二郎)
BGM:『秋刀魚の味』より「平山父子1」作曲:斎藤高順

1952年(昭和27年)、夏の終り頃のことです。私は松竹大船撮影所に呼ばれました。私の目の前にいる岩のように大きな人物こそ、当時の映画関係者の間では神様のような存在と言われていた小津安二郎監督、その人でした。

当時、松竹大船撮影所で音楽部門を仕切っていた吉沢博さんの推薦で、私は初めて小津監督とお会いすることになったのです。大変厳しい監督であるという噂は私の耳にも届いておりましたので、夢のように思う反面、恐ろしさで身も縮むような複雑な気持ちでした。緊張のあまり口もきけずに頭を下げていると、小津監督は開口一番「今までにどんな映画音楽を作曲しましたか?」と言われました。私は「まだ一度もやったことがありません。先生のお仕事が初めてです。」と答えました。

すると、一瞬驚いたような表情を見せましたが、すぐにニコニコ笑いながら「そいつはいいや。」とおっしゃいました。ほっと胸をなでおろすと、いきなり助監督に映画の台本を持ってこさせ、その場ですぐに第一回目の打ち合わせに入ったのです。その台本は、芸術祭参加作品の『東京物語』でした。
BGM:『秋刀魚の味』より「郊外の駅で」作曲:斎藤高順

東京物語より主題曲 作曲 斎藤高順
1953年(昭和28年)松竹株式会社

『東京物語』の隠れた名曲誕生秘話

写真:原節子と東山千栄子
BGM:『秋刀魚の味』より「平山のある夜2」作曲:斎藤高順
作曲家は、映画音楽の録音日の1週間から10日くらい前までにスコアを完成させておき、それを小津監督の前で一旦演奏披露するのです。これが御前演奏会と言われ、小津監督は作曲家に御前演奏をさせる特権を、松竹大船撮影所でただ一人持っていました。もしそこで監督が気に入らなければ、作曲家は録音当日までに書き直しを命じられるのです。ついに『東京物語』の御前演奏会の当日となりました。スタッフ連中は、極度の緊張状態にあったことはいうまでもありません。

トップタイトルの音楽が終わっても小津監督は一言もおっしゃいません。それから次々と吉沢さんの指揮で曲が演奏され、とうとうラストシーンの音楽も終わりました。恐る恐る監督の方に顔を向けると、一言「今度の音楽はなかなか良いね。」と言われたのです。続けて監督は、「いいね、音楽みんないいからね、この通りでやってください。」と褒めてくれましてNGはひとつもなし。

スタッフの人たちがみんな喜んじゃいましてね、今までにないことだそうです。フィーリングが合ったのでしょうか。もう嬉しくて、録音の日まで家で酒を飲んで寝てました。

ところがダビングの時点で、ひとつの問題が生じたのです。それは、東山千栄子さんが戦死した次男の嫁、原節子さんのアパートを訪れるシーンの音楽をめぐって起きたのです。私はこのシーンを映画全体のひとつのヤマ場と感じましたから、特にシーンとピッタリ合う品格のあるものをと強く意識して音楽を付けました。ところが、小津監督は「この音楽はシーンと合い過ぎて、映画全体のバランスが崩れる。悲しい曲やきれいな曲では場面と相殺になってしまう。」と言いました。

つまり、NGということなのです!

しかし、当時の私はまだ二十代の怖いもの知らずな若者でした。曲の出来映えに絶対の自信があった私は、天下の小津監督に生意気にも意見をしたのです。そして、どうしても譲らない私の態度を見て、とうとう小津監督の方が折れたのでした。

当時の様子を、近くでご覧になっていた笠智衆さんは、後日映画音楽のレコード発売の推薦文に次の様なコメントを寄せています。「斎藤さんはなかなか自説をまげない人で監督の注文でも、納得しなければ絶対ウンと言わない人です。それでいて、小津先生の作品の色あいからは決してはずれなかったようです。忘れられない小津先生のあの美しい画面がこれらの曲からなつかしく思い出されるのです。」
(笠智衆談)
出典:『秋刀魚の味 -小津安二郎名作映画音楽集-』(日本クラウン株式会社)

映像:『東京物語』(松竹株式会社)
『夜想曲』が採用されたシーンの映像

音楽がほとんど聞こえません!

私はその曲の出来ばえに自信がありましたから、とてもガッカリしました。けれども、すっかり落胆した私の様子を見て、小津監督はこう言ってくれたのです。「ぼくは、登場人物の感情や役者の表現を助けるための音楽を決して希望しないのです。」

また、こういう風にも仰いました。「いくら、画面に悲しい気持ちの登場人物が現れていても、その時、空は青空で陽が燦々と照り輝いていることもあるでしょう。これと同じで、ぼくの映画のための音楽は、何が起ころうといつもお天気のいい音楽であって欲しいのです。」こうした言葉によって、私は小津監督の映画音楽観をしっかりと理解できたように思いました。
BGM:『秋日和』より「秋子母娘のポルカ」作曲:斎藤高順

東京物語より夜想曲 作曲 斎藤高順
1953年(昭和28年)松竹株式会社

小津監督が好んだ「お天気のいい音楽」とは

写真:斎藤高順(後列左から3人目)、有馬稲子、小津監督、笠智衆(前列中央)
BGM:『秋刀魚の味』より「平山父子2」作曲:斎藤高順

「音楽についてはぼくはやかましいことはいわない。画調をこわさない、画面からはみださない奇麗な音ならいい。ただ場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑けいな曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる。悲しい場面でも時に明るい曲が流れることで、却って悲劇感を増すことも考えられる。」
出典:『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』

「お天気のいい音楽」の象徴が「サセレシア」です。では、「サセレシア」というタイトルは、一体どこから来たのでしょうか?「小津監督から、サ・セ・パリやヴァレンシアのような歯切れのよい音楽を頼むよ…。と言われて作った曲に監督自身が命名しましたが、意味は不明です。」
(斎藤談)

「サセレシア」=「サ・セ・パリ」+「ヴァレンシア」造語? 駄洒落?
これは、小津監督のちょっとした遊び心から生まれたジョークのようなタイトルだったのです。

「サセレシア」パクリ疑惑?
小津監督は「サ・セ・パリ」や「ヴァレンシア」が大変お好きだということを聞いていたので、両方の曲を調べたところ、まず8分の6拍子で変ロ長調、要所要所に共通する音が使われていることを発見しました。そこで、とにかく拍子は8分の6とし、共通する音を楽譜に記載して、それを軸に自由に作曲したところ、「サ・セ・パリ」にも「ヴァレンシア」にも似たようであり、でも少し違うような面白い曲が完成しました。

「サ・セ・パリ」ミスタンゲット(1926年フランス)※
「ヴァレンシア」ラケル・メレ(1926年スペイン)※
「サセレシア」斎藤高順(1956年)
音源:「小津安二郎が愛した音楽」(nihon Westminster)※

とても良く似ていますが、大丈夫なんでしょうか?
タイトルからして、パクリっぽいんですが…
「サセレシア」=「サ・セ・パリ」+「ヴァレンシア」

安心してください!もう時効ですよ。

深刻なシーンに陽気なBGM
映像:『東京暮色』(松竹株式会社)

斎藤高順が導き出した答
小津監督は、「サセレシア」や「ポルカ」調の音楽を付けると「なかなかいいねぇ~」と言ってご機嫌でした。小津監督の音楽の好みを言葉で表すと、次のような感じになります。
– 弦による甘く明るい大らかな旋律、明るい中に一抹のわびしさを感じさせる様な和声の進行
– 長調の曲の中で一時的に短調に転調
– 長調なのに主音の「ド」よりも「ラ」の音を主にして何となくペーソス(哀愁)を持たせる
これらを意識して曲を作ると、小津監督からNGを出されることはありませんでした。
BGM:『秋刀魚の味』より「路子・揺れる心」作曲:斎藤高順

東京暮色よりサセレシア 作曲 斎藤高順
1957年(昭和32年)松竹株式会社

『秋刀魚の味』のポルカには歌詞が付くはずだった?

写真:笠智衆と岩下志麻
BGM:『秋刀魚の味』より「平山のある夜1」作曲:斎藤高順

最後の作品になるとは思いませんでしたが、「秋刀魚の味」の時にも「サセレシア」を使いたいとおっしゃるので、「違う曲を書きます。気に入らなければ書き直しますから。」と言って書いたのが、あの映画で使ったポルカです。これも気に入ってくれて、「次回作もこれでいこう。」と言ってくれたのですが…。「ぼくが詞を付けるから、宝塚の寿美花代あたりに歌わせてレコーディングしよう。」なんておっしゃっていました。残念ながら、実現することはありませんでしたが。

次回作『大根と人参』に挿入歌?
『大根と人参』の主な配役、設定、ストーリーなど、小津監督と野田高梧の間では詳細な話し合いが進められていました。音楽は斎藤高順、挿入歌として「秋刀魚の味」のポルカに小津監督自身が歌詞を書いて、宝塚の寿美花代に歌わせるという企画があったのです。小津監督は 『小早川家の秋』 の撮影のため、1961年(昭和36年)5月24日から10月3日まで、宝塚撮影所近くの宿に滞在しました。撮影の合間に何度も宝塚の舞台へ通い、宝塚歌劇団の娘たちともすっかり仲良くなり、彼女たちも小津が滞在する宿を度々訪れました。

写真:宝塚・門樋旅館にて寿美花代・原節子らと(昭和36年9月頃)
出典:「小津安二郎 人と仕事」(蛮友社)
その中のひとりが寿美花代でした。(前列右端)

小津監督は、「秋刀魚の味」のポルカに一体どのような歌詞を付けるつもりだったのでしょうか?そのヒントは、『大根と人参』のストーリーの中にありそうです。『大根と人参』は、旧制高校以来の親友二人の家族を中心に描いた物語ですが、同窓生のひとりが癌に侵され、治療の甲斐もなく息を引き取ります。これは、『早春』ではじめて「サセレシア」が使われたシーンとオーバーラップします。『早春』では、池部良が同僚の増田順二を見舞うシーンと、増田順二の葬式のシーンに「サセレシア」が使われました。

『大根と人参』では、笠智衆が同窓生の信欣三を見舞うシーンと、信欣三の葬式のシーンに歌詞の付いた「秋刀魚の味」のポルカが使われるはずだったとしても不思議ではありません。では、この最も悲劇的なシーンに流れる挿入歌に、小津監督はどんな歌詞を考えていたのでしょう?

歌詞のお手本はフォスターか?
『一人息子』や『東京物語』にも使われた、小津監督が敬愛するフォスターの代表作は、死者を弔う唄でした。「オールド・ブラック・ジョー」や「主人は冷たい土の中に」は、明るい曲調に死者との別れを悲しむ歌詞が付けられていました。

「秋刀魚の味」のポルカは、癌で死んでいく友人へ捧げる小津監督のメッセージが込められた「レクイエム」になるはずっだったのでしょうか?それとも、明るい曲調に合わせ、陽気な歌詞を書くつもりだったのでしょうか?しかし、癌で死んでいく同窓生の話を書いていた小津監督本人が、皮肉にも末期の癌に侵されてしまい、この企画はとうとう実現することなく、監督はこの世を去ったのです。小津監督が、「秋刀魚の味」のポルカにどんな歌詞を付けたかったのかは、永遠の謎となりました。
BGM:『秋刀魚の味』より「三度かおるへ」作曲:斎藤高順

秋刀魚の味より主題曲・ポルカ・エンディング 作曲 斎藤高順
1962年(昭和37年)松竹株式会社

小津監督との別れ

写真:東野英治郎、小津監督、杉村春子
BGM:『秋日和』より「エンディング」作曲:斎藤高順
小津監督の印象については、怖い人だと言う人もおりましたが、私には優しい人としか思われませんでした。仕事場ではとても厳しい方でしたが、少しも辛いと思う事はありませんでしたし、普段もよく飲みに行こうと誘われました。撮影はだいたい夕方5時頃には終わり、その後は決まって横浜あたりに出て一緒にお酒を御馳走になりました。いろいろな雑談を重ねていくうちに、お互いの気心も知れるようになり、時には私も浅い経験から割り出した幼稚な意見などを吐くようになりましたが、小津監督はそれらを一つ一つやさしく聞き入れて下さいました。

また、カラー1作目の『彼岸花』の中で、山本富士子さん扮する旅館の娘が、佐分利信さんのお宅へ訪問するシーンがありました。あの時、山本さんが持っていた真っ赤な風呂敷は、私たち夫婦が結婚した時の引き出物なんです。そういうところなど、本当に遊び心のある方でした。

小津監督は1963年(昭和38年)になって、築地の国立がんセンターに入院されました。そこへお見舞いに行ったのがお別れになってしまいました。個室に入っていらして、佐田啓二さん(中井貴惠さん、貴一さんの父)が付き添っていましたが、私が行くと病室のまわりがずいぶん賑やかなんです。どうしてなのかなと思って病室に入ってみると、原節子さんと司葉子さんがお見舞いに来ていたんです。看護婦さんたちが、二人が病室から出てくるのを待っていたんですね。

小津監督は、頸部にできた癌のため相当な痛みがあったはずなのに、私が訪ねるとベッドの上に身体を起こして、「斎藤君、よく来たね。」と歓迎してくれ、次のようにおっしゃいました。「斎藤君、ぼくの映画に作曲した楽譜は大事にとっておきなさいよ、きっとまた役に立つことがあるから。」と言われたのです。小津監督は、本当に私の音楽を評価してくれていたんだ…ということを実感し、胸が熱くなったことを覚えています。あとは、何を話したのか思い出せません。

監督が亡くなられたのは60歳、1963年(昭和38年)12月12日の還暦の日でした。小津監督とは、私が27歳の時に出会い36歳でお別れしました。たった10年間のお付き合いでしたが、生涯忘れることのできないとても大切な思い出になりました。

昭和27年、蒸し暑い夏の終りの午後、大船撮影所で小津監督に初めてお会いした日のことは、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。まるで夢のような10年間でした。小津監督、本当に有難うございました。
BGM:『秋日和』より「アヤ子と後藤のポルカ」作曲:斎藤高順

秋日和よりオルゴール 作曲 斎藤高順
1960年(昭和35年)松竹株式会社

斎藤高順さんとの思い出 詩人・柏木隆雄

「たんぽぽ」初演時の写真 1994年2月
多摩プラ-ザ・サンメディアスタジオ
作詞:柏木隆雄 作曲:斎藤高順 ピアノ:朝岡真木子
映像:“ふるさとを詠う“コンサートより「たんぽぽ」歌唱:三浦靖子

『秋刀魚の味』のエンディング・シーンが、小津映画そのもののエンディング・シーンとなりました。娘を嫁に出した後、わびしさを全身で表現するシーン、ここで小津作品に最も多く出演した笠智衆による名演技のバックに斎藤高順の音楽が流れます。この印象的な名シーンを最後に、小津芸術は幕を下ろしたのです。

映像:『秋刀魚の味』(松竹株式会社)
笠智衆の名演技と斎藤高順の音楽によるエンディング・シーン

小津映画の音楽を生演奏で愛でながら作曲家・斎藤高順の人と作品を語る会|第2部(PDF)

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