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プロフィール
こんにちは、当法人代表理事(兼雑用係)の斎藤民夫です。私の簡単なプロフィールを、以下にご紹介いたします。
私は、東京世田谷で生まれ育ちました。
まだ昭和30年代から40年代の頃でした。当時、世田谷には多くの自然や、戦争の痕跡なども残されていたのです。家の近くには空地もあり、防空壕が戦時中のままの状態で残っていたりしました。渋谷の駅前には、戦争で手足を負傷した元軍人たちが、アコーディオンを弾きながら物乞いをしている光景も珍しくありませんでした。渋谷の公園通りは空地だらけで、子供たちの遊び場でしかなかったのです。
私の父(斎藤高順)は、小津安二郎作品の音楽を担当したことで一躍有名作曲家の仲間入りを果たし、松竹や日活の映画音楽を数多く手掛けました。テレビの黎明期には、ドラマやCMの音楽なども多数作曲しました。
私は幼少の頃より音楽に親しんで育ちましたが、自分が演奏家や作曲家になろうとは一度も考えたことがありませんでした。かと言って、サラリーマンや公務員になりたかったわけではなく、音楽家のように自由で組織に束縛されることもなく、かつサラリーマンや公務員のように安定した給与やボーナスが貰えるような虫のいい生き方はできないものだろうか…などとボンヤリ考えていました。一方、私の兄弟たちは全員音楽家の道へと進みました。
結局、大した努力も苦労も経験しないまま、私立の高校から大学へと進み、やりたいことも見つけられないまま就職活動の時期を迎えてしまいました。同級生たちは、何の迷いもなくサラリーマンや公務員を目指しましたが、私はそんな生き方に興味も魅力も感じられませんでしたので、とうとう一度もリクルート活動さえしないうちに大学を卒業してしまったのです。でも、そのままニートになるわけにも行きませんので、専門学校へ行くことにしました。今思うと、本当に何も考えず親に甘えていたに過ぎませんが、専門学校の費用も親に負担してもらい、編集や出版関係の専門学校で一年間勉強することになりました。
ここで学んだことは、その後の人生にはほぼ何の役にも立ちませんでしたが、将来の方向性を決める上では大きな転機になったと言えるのかも知れません。つまり、文書を扱う仕事に携わるきっかけとなったのです。文書を扱うといっても自分が執筆するわけではなく、他人が作成した文章を編集したり、校正したり、レイアウトを考えたりする仕事が存在することを知り、そのように地道な仕事も悪くないな…と考えるようになりました。
最初に就いた仕事は、コンピュータのマニュアルを作成する仕事でした。この経験が、現在の仕事にも通じるドキュメント関連ビジネスへの第一歩でした。そもそもマニュアルとは何のことかさえ知らないうえ、コンピュータなど見たことも触ったこともありませんでした。まだパソコンが登場する以前の頃で、コンピュータといえば巨大なホストコンピュータやオフコンが全盛の時代です。文書作成用に、日本語ワードプロセッサーが続々と登場しはじめた頃のことでした。
私はコンピュータ業界大手のF社で、ホストコンピュータのマニュアル制作業務に就きました。編集や校正のことは多少勉強していましたが、コンピュータでマニュアルを制作するという業務は全く未知の世界で、また当時世界最先端と言われたF社の文書処理システムに触れることができたのは大変貴重な経験でした。そこでの経験は、文書をデータとして扱い、レイアウトの自動化や文書をデータベース化するといった当時としては画期的な技術であり、その後のキャリア形成に大きな影響を及ぼしました。
ここでは生まれて初めてプログラミングも経験し、自分のプログラムにより様々な文書を生成するという得難い体験をすることができました。今ならばワードやエクセルで簡単にできてしまうことですが、当時は一生懸命プログラムを書いて文書データを作成していたのです。
F社での経験が(多少…)評価されて、今度は有名企業X社のドキュメンテーション部門へ転職することになりました。X社には、後のMACの原型であるSTARという文書編集システムがあり、このシステムには米国パロアルト研究所で開発されたネットワーク技術、高解像度ディスプレイ、ファイルサーバー、レーザープリンタ等々、現在のテクノロジーに繋がる様々なノウハウがすでに実装されていたのです。
実は、当時のX社にはアップル社を凌駕する程の技術力があったにも関わらず、マーケティングやプロモーションのノウハウが乏しかったため、あっという間にこれらの先端技術はアップル社に奪われてしまいました。私はF社で培った大量文書処理のノウハウと、X社の持つDTP(デスクトップパブリッシング)技術を融合し、新しいドキュメントサービスの立ち上げを担当しました。世間ではDTPへの関心が高まっていた時期でもあり、他社ではUNIXワークステーションによるDTPシステムやパソコン向けDTPアプリケーションソフト等も続々と登場していました。
そんな中、X社のSTARを中心としたドキュメンテーションには揺るぎない技術力と、確かな経験による優位性がありました。その後、マイクロソフトやアップル、アドビ等の業界最大手が市場を制圧し、UNIXワークステーションや日本語DTPシステムを手掛けていた各メーカーはあっという間に撤退を余儀なくされました。インターネットの急速な普及や、出版・印刷業界の低迷などもあり、ドキュメンテーションビジネスは変化せざるを得なくなりました。
X社の先行きに少々不安を感じはじめていた頃、私はX社を退社し(当時としては…)好条件で某制作会社(E社)の役員へと転身しました。ここでもF社やX社での経験を活かし、デジタルアーカイブ事業やオンデマンドプリント事業などの新しいビジネス分野の立ち上げに尽力しました。この頃には生活も安定し、埼玉に新築の家を建てたり、たびたび家族で旅行をするなど、やや慢心と油断が生じ始めていた時期でもありました。
しかし、F社でもX社でも、そしてE社においても感じていた組織の煩わしさ、人間関係の鬱陶しさがついに限界に達し、とうとう独立を決意しました。ところがこれが転落の始まりでした…。
独立計画は全く上手く運ばず、僅か半年ほどで白旗を上げる始末です。今さらサラリーマンに戻ることもできず、かといってアルバイトでは住宅ローンや子供の教育費を捻出することは到底不可能です。自分の無力さ、計画性のなさを思い知りましたが、どうすることもできず夫婦関係も急激に悪化していきました。協力者は全員離れていき、家族の生活を守ることさえできなくなり、とうとうビジネスばかりか家庭までも崩壊してしまいました。この失敗により、私は全てを失うことになったのです。
マイナスからの再スタートでしたが、これまでの経験を活かして企業や官公庁の保管文書や過去の出版物を電子化(スキャン、OCR)する仕事、いわゆるデジタルアーカイブ業務を受託し、早朝は肉体労働のアルバイトを兼務しながら、離れて暮らす家族の生活を支えるためギリギリのところで踏みとどまりました。しかし、リーマンショックが追討ちとなり、地方の工事現場で中国やブラジルの労働者に混じって、住み込みの肉体労働に従事したこともありました。今では、ちょっと笑える思い出となりましたが…。
しばらく厳しい時期が続きましたが、何とか細々と生きてこられたのは、どん底の自分を支えてくれた母と仕事を回してくれた友人のお陰でした。感謝の気持ちを決して忘れることはありません。そして、2015年10月に一般社団法人サイト&アート・デジタルアーカイブスを設立し、今後自分が進むべき道筋が明確になりました。まず、2015年兄妹と共に「サイトウ・メモリアルアンサンブル」を結成し、計4回のライブイベントを開催することができました。
以下は、今後の実施計画です。
・斎藤高順作品の楽譜を整理し、作品リスト及びPDFデータを作成してネット公開します。
・小津映画音楽の全作品をサイトウ・メモリアルアンサンブル用にアレンジします。
・サイトウ・メモリアルアンサンブルの小津映画音楽とトークによるライブイベント活動を継続します。
・クラウドファンディング等を活用し、小津映画音楽のオリジナル譜を浄書し、当時の編成通りにオーケストラによるコンサートを開催します。
・斎藤高順作品による吹奏楽やピアノ曲、歌曲等のライブイベント活動を実現します。
・サイトウ・メモリアルアンサンブルの映画祭への参加や、地方公演の実現を目指します。
・父が遺した楽譜類、カセットテープ、LPレコード、ビデオテープ等をデジタル化し、ネット公開、録音、出版等を通して、文化芸術方面におけるデジタルアーカイブ事業の推進に貢献します。
これらの活動をライフワークとし、2016年以降も文化支援事業を展開していきます。これが生活の基盤となるには、まだまだ課題が山積していますが、決して諦めずに希望を持って取り組んでいく所存です。どうぞ、今後の活動にご期待ください♪